ムーンリバー
月が段々丸くなってきた。
兄が二十歳の時に胃潰瘍になって薬で治せるところを焦って手術すると勝手に決めてしまった。父は怒ったけど、「がんになるかもしれんって言われた」と聞いて一緒に頑張った。
まだ医学が今ほどじゃなかったので、すごくつらい術後になった。
母は心配から眠れなくなって、風邪をひいてしまった。父は母に寝んと看病ができんで、と言ったけど、眠れないものは仕方ない。
私は両親がそろっていたせいか、まだ、子供だったのか(高校卒業の時だった)案外寝られたので、父の助けになったかもしれない。ナースコールもなかった思い出で、何かあると、私が走って看護婦さんを呼びに行った。
母は兄の隣のベッドで寝てた。移ると困ると思ったが、先生が「点滴をしてるから、まず大丈夫」と言われた。私に移ると困るので、マスクを口と目とにして寝ていたが、看護婦さんに笑われた。
たくさん点滴が入ってもなかなか上手く「おしっこ」ができないので、看護婦さんにとってもらうのが恥ずかしくてイヤだった兄は「腹がポンポンでえらいで、点滴を取ってくれ」と言った。取ったかどうか覚えてないが、すごく苦しそうで可哀想だった。
そういえば、手術室から手術が終わって運ばれて来て、高校の恩師も来ておられたが「見ているのがつらい」と帰られた。
私は、兄の手を握っていた。まだ、麻酔が効いていると思ってたが、手術室から帰って来てほどなく兄の手がもぞもぞ動いたので、はっとした。「お兄ちゃん、何か言っとるの?お父ちゃん、お兄ちゃんの指が何か動いとるよ」と言った。兄の顔が少し動いて私は兄の手が何を言っているのか感じ取ろうとした。
わかった、「今、何時か?」と聞いてたのだった。話では次の日が一番苦しいと言われてたので、なるべく長く麻酔が効いてるといい、とみんなで話たのだった。
でも、兄はすぐに目覚めてしまった。感の高い人だったので、効きが悪かったのかもしれない。私は、可哀そうだけど、手術中でなくてよかった、と思った。
夕方だったような記憶だ。兄に告げたら心からがっかりしたようだった。
苦しい苦しい一週間だったと思う。弱音を吐く人じゃなかったけど、あの時だけは違った。父が「自分で決めたことじゃないか」と言ったけど、可哀想だった。
少し時間が経ったけど、当時は付き添いがいつまでいてもよかった。病室は一室、ウチで借り切るみたいにできた。父と母とが交代で付き添ったけど、私が卒業式を終えて暇になったので、仕事がある両親から私へ交代した。
夜になるとAMのラジオ放送が楽しみで深夜まで一緒に聴いた。
北海道の放送局が、電波の関係で入った時「ムーンリバー」が流れた。
兄が私に「どんな風景を思い浮かべるや?」と聞いたので、「月があって下にきれいな川が流れとって」とまるきり普通のことを言った。そしたら兄も「そうやな。俺も一緒だ」と言った。兄は、輸血の為に血清肝炎を患って入院が長引いたが、かえってそれが幸いしたと思う。
早く大学に戻って、と焦るより療養できたので。
それでも、大学に戻って、ダブらなくてもよかったはずだけど、兄は「ウザワ先生のゼミに入りたいから」と一年留年することにした。成績が良くないと入れない、と言っていた。それも、よかった。両親の庇護の下、大好きな自転車に乗って少しずつ体力を回復させていった。
なつかしい。
栗が熟せずに虫食いで道に点々と落ちていた。昨日のやつだ。
今日は、台風20号が来て雨だったから。
昨日は、ルリシジミもいた。山の中に。ウチの庭にベニシジミもいた。
シジミチョウもセセリチョウ同様可愛い。
台風のせいで蒸し暑い、すごく堪える。
昨日、原稿の依頼があった。嬉しいけど、まだまだ仕上げれない。原稿締切はまだなので、大丈夫。
この頃、ゴリラのココを思い出す。手話で話もできて死の概念も持っていたらしい。
「死ぬとは?」の問いに「苦労がなくなり穴に入って眠るだけ」と。
ゴリラも苦労があったんだなぁ。手話を教え一緒に暮らした方はさぞお辛かったと思う。40歳くらいだったから。
もう一回、ゴリラと一緒にというわけにいかなかっただろうから。
すごいなぁ、ココちゃん、安らかに、と思える夜です。
権力を持ちし日から負け月の夜
風の音別世界見ゆ野分かな
虫食いの栗落ちし道歩き行く
ムーンリバー兄と聴きし夜なつかしき